『アヒルの子』監督:小野 さやか 



アヒルの子

【家族]って何だろう? [私]って何だろう?
地域共同体が崩壊し、核家族化が進む現代日本で、揺れ動いている[私]と[家族]の関係。世界中のさまざまな事件の情報が日々溢れていても、[私]と[家族]の関係は多くの人にとって最も身近な問題ではないでしょうか。秋葉原通り魔事件、川口在住・中学生女生徒の父親刺殺事件・・・日本で起こっている数々の事件の背景には家族の問題が潜んでいます。
カメラの前に自らをさらけ出した監督・小野さやかが撒き散らす自己嫌悪の衝動は、親子の価値観の違い、姉妹間の愛憎、性的虐待・・・様々な[家族]の問題をえぐり出します。あいまいであるけれども強烈なその衝動は、観る者それぞれの家族観を大きく揺さぶることでしょう。
本作は決して、彼女とその家族だけの物語ではありません。現代を生きる[あなた]とその[家族]の物語でもあるのです。
2005 HOTDOCS国際ドキュメンタリー映画祭(カナダ) 正式出品
2005 シャドードキュメンタリー映画祭(オランダ)正式出品

監督より...アヒルの子と生きる
生きていることが申し訳なくて、死のうと決めた。20歳で、もうなにも期待していなかった。
わたしを救いだしてくれるヒーローはどこにも居なかった。重い気持ちをひきずりさまよって
いた。人々はうるさかった。休まる場所は夢の世界の中だけだった。映画舞台小説マンガ
・・・創作の海の中で私は自由に泳ぐことができた。もっと世界を限定してくれ。世界の大き
さを決めてくれ。わたしには東京は大きかった。人も多すぎた。東京という、初めての大舞
台に立ち、やけにスポットライトが熱かった。異常だった。熱くて立ってられなくて、幕を閉
じるまでのスピードも速かった。登場人物も多かった。そんで動き方がわからず抵抗する
間もなく、私はただそこにいた。
わたしは昔、家族だった。家族という世界に慣れ親しんだ登場人物の一人だった。一歩外
へ出ると、私のことを誰も知らなかった。今までの人生はなかったようだった。私は不自由
に感じた。何かが違うと思った。親の求める「いい子」であろうとしてきた。わたしは誰から
も必要とされる存在のはずだった。こんなはずじゃなかった。そうして気がついた。ここは
家族ではない。私は何者でもない。あっけなく役割を失った。誰もが私を無視した。存在意
義がなかった。どうしていいのかわからなかった。わたしが信じた家族は幻だった。わたし
は家族という幻想に縛られた住人だった。家族に生かされたから殺せよ!と叫んだ。誰も
聞いてくれなかった。私は映画を撮ることに決めた。家族を壊す決意をした。
映画は完成した。映画の生んだひずみに怯える人が居た。「この映画は倫理に反する」「人
としてやったらいかんことがある」「甘えている」「この映画を観せることは家族も傷つくしあな
たも傷つくよ」人々の声はわたしを切り裂いた。私のことをわかってくれない。猛烈に空しか
った。そんなときだった。「もっと家族を壊してほしかった」と切々と語る若者の声を聞いた。
誰かの悲鳴が重なった。どこかで聞き覚えのある声。わたしの声だった。気がつけば、周り
にはたくさんの人がいた。私はいつの間にか他者の中に居た。家族を壊したことで、家族の
破片が人々の中に散らばったのだろうか。わたしは、映画を通して他者と関係する。わたし
は世界が許すかぎり、何度でも、この手で世界を構築する。家族を壊したいま、映画がひず
みを生んで、そこに何かが修復しようと集まってくる。わたしはまた壊し、構築する。何度でも。

監督:小野 さやか
1984年生まれ、愛媛県出身。高校卒業後日本映画学校に入学。2年次から映像ジャーナルゼミに所属し、
ドキュメンタリーの制作を学ぶ。本作品は同校卒業制作として制作された。
制作総指揮:原 一男
映画監督。1972年「さようならCP」で監督デビュー後「極私的エロス 恋歌1974」「ゆきゆきて、神軍」「全身小説家」と
時代を代表するドキュメンタリー映画を発表。日本映画学校では映像ジャーナルゼミを担任し「アヒルの子」の制作に携わった。
現在は大阪芸術大学映像学科教授として後進の指導にも当たっている。
撮影:山内大堂
録音:伊藤梢
制作・編集:大澤一生
音楽:小倉里恵(まめ妓)
アドバイザー:小林佐智子、栗林豊彦、浜口文幸